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あーとネット・とちぎ サマーミーティング2011

いま、高校生と考える震災とアート アートにできること、できないこと。

05

伊藤伸子(宇都宮美術館 学芸員)

宇都宮美術館の伊藤と申します。地震の日は、私どもも美術館を開館しておりまして、
実際、展示室に飾ってあった作品も壁から落下するということが起きました。ただ、
そのときは、額縁が犠牲になってくれたといいますか、額縁が割れたくらいで被害が
止まりまして、作品そのものへの被害は展示室の中ではなかったんです。ただ、
収蔵庫の方はちょっとだけありましたけれども、それも何点か、という被害でした。

で、その壊れてしまった作品は、やっぱり、すぐに修復はどうしますか、という問題に
なってきたんですね。ただ、私自身の個人的な体験で言いますと、むかし、お寺の
仏像の展覧会が東京でありました。そのときに、たいぶむかしの火事で焼けた仏さま、
大きな二体があったんですけれども、それが焼けた状態のまま展示されていて、それが
こう、展示室の動線からすぐにぱっと見えるわけではなくて、まず、その何か
わからない、欠けてしまって真っ黒なシルエットだけが布のスクリーンから、うかがい
見れるという状況だったんですよ。その張られた布を周っていって、初めてその、焼け
焦げた仏さまと対面する、という体験があって、その時の力っていうのは非常に
インパクトがあったなってことを記憶しています。

なので、ま、美術館としては、作品を本当にいい状態で、百年先、千年先の人に見せる
という使命感でいつもやっていますけれども、壊れてしまった作品を見せることに
ついても、これからは考えていけるかなとは思います。すみません、まとまらなくって。

有坂

ありがとうございます。ま、これは多様な意見があるかもしれないけれど……

小泉

私も振った責任があるので。実はね、いわきの美術館に、壊れたゴームリーを、
そのまま展示させてくれってお願いしたんですよ。その後、どういうことが
起こったかっていうと、ゴームリーは、まだ生きています。作家に聞かなきゃだめ
なんです。著作権っていうものがあって、創ったものを勝手に変えてはいけない。

今度の場合は地震が勝手につくり変えちゃったわけ。それを、作家の許可なく、
そのまま展示するっていうことは、作家の当初の意図とはちがうから、著作権法上
まずい。そういう問題もあったりして、ゴームリーに問い合わせる時間もないし
なと今回は見送ったんです。

だから、作品は、作られてからしばらくは作家のものであって、作った人が
こういうふうに見てもらいたいと思っているものを、壊れたので、これはもう、
私たちの歴史だと言って見せていいかどうかっていうのは、本当にものすごく
微妙な問題を抱えているんだよね。

そのへん、間島さんだったらどうしますか?壊れたまま展示してよい?

間島

以前、別の地震で、ある北海道の美術館から、地震があった直後に電話がかかって
きまして、作品は無事ですからっていう。で、まあ、そうかっていうか、自分から
離れてしまって、そこの所蔵になっている作品なので、丁寧に連絡してくれるんだなあ
と思ったぐらいなんです。ですから、まさかそういうことは、壊れたときはどう
しますかっていう裏返しだと思うんですけれど、私の作品は修復が非常にむずかしい
のかもしれないのですが、まあ、それは保存の問題なんかも関わってくるのかもしれない
ですが、自分が生きている間は直したいですね。

小泉

ですから今回の地震の教訓で、作家には一筆もらっておくべきだなと思います。地震で
壊れたとき、そのまま展示していいですかって。地震国だもん、日本て。

だって、阪神大震災で十何年前でしょう?それで、またこんな地震が起きる。これから
もっとでかいのが東京でって言われてるんですから。そしたら、本気で考えとかなきゃ
というんで、田中さんの問題提起はすごいでかいぞ、美術館の世界では、と思って
聞いてたのね。

有坂

ありがとうございました。じゃ、その被災作品については、
ちょっと、ここで置いといて。

今回、シンポジウムを企画して、進行役を仰せつかったんですけど、筋書きは全く
なかったです。本当に正直なところですね。小泉さんの経験とかお立場とか、その
考え方を起点として持っていけるんじゃないかと考えて進めてきたわけですが、
まぁ、その通りの展開になってきてるわけです。ここまできて、『高校生と考える
震災とアート』で、『アートにできること、できないこと』というテーマになって、
お手元のチラシにも趣旨が書いてあります。たぶんこういう議論の拡がり方っていう
のは他でそう多くないんじゃないかな。

アートの、そのとらえ方の拡がりってていうか、ここまでアートの記録性とか、
それこそ、作家としては、生きている人にこそ伝えたいっていうお話もあり
ました。そういういまの、その残った作品の扱い方、同じものが、状況が変われば
見方が変わる。その記録性のほかに効用ですね、『癒し』と、かそういうものが出て
きました。いろんな立場にとって、とらえ方が大きく変わってくる。私もうかがって
いるだけで、視野がひろがってきたんです。

ここで、実際に作家の方も来ていらっしゃるようなので、指定はしませんが、
いままでの発言に対する反応でもでも結構です。これ、フリーにしても
大丈夫でしょうかね。(小泉、間島の方を見る)。時間もあと30分を切りましたので、
御自分の体験とか、いま出た議論の中でも結構です。ぜひ、ここで、ちょっと一言と
いうのがあればありがたいのですけれどいかがでしょうか。ぜひ、忌憚のないところを
お願いしたいと思うんですけど、いかがですか?指名してもよろしいですか。じゃ、
あの、ちょっと、巨匠にお願いしてもよろしいでしょうか?

長重之(美術家)

ちょっと待って、ちょっと待って。あの、巨匠はやめてください。ただの
美術家ですから。

えーっとですね。難しい……。難しいっていうか、ちょっと率直に言いすぎると、
かなり問題発言になってしまいますが、二人の先生方は、もうすでに美術は無力だと
思っているんじゃないかと思ってるんですけれど、そうでもないですかねえ。そういう
点でもう少し聞きたいと思ってます。あと一つ、私自身の芸術観と言うか社会観と
言えばいいのか、かなり、その見方に影響すると思うんですね。私は俗にいう、
いわゆる「もの派」までは言いませんけれど、全て作品は物を使っていますから、
当初はやった「もの派」とはちょっとちがいますけれど、一応、理由があって、形が
あったものを使っています。

それでですね、こう言うと、かなりちがう意見も出てくると思うんですけど、今度の
震災ですね。それが起きる前といまは、私の感性からいうとあんまり変わってないと
思ってるんです。ただ、目先のことでは変わっていません。もし変わっているとすれば、
その起きた後には、もっとスムーズに物事が解決していけると思ってるんです。

ていうのは、とにかく作品は、私は、普通描いている作品は「イリュージョン」で
「妄想」だと思ってるんです。それで、全て「事物」で成り立ってると
思いますんで。で、ピカソのお話しを先生なさったんですけどね。あのとき後者に
話した大きな疑問を持ってるとおっしゃいましたよね。あれが正解だと思いました。

初めに美術館のお話しを先生がなさったんですけれど、あんとき、あの講師が話した、
大きいのには疑問を持っているっていう、あれは正解だと思いました。藤枝さんが、
藤枝さんでいいんですよね?

小泉

あー、そうです。

あの人はそう言いますよ。私もどちらかというと、藤枝さん的考えに近いかなあ。

高校生が感じてることはどうなんだろうなあ、いまの時点では正直だと思うんですけど、
もう少し経つと変わるじゃないかという期待も持っています。ですから、私も講師の方が
感じたことと、私も同じだと思うんですよね。

それで私自身のことを言います。実際に、もう少し経ったら被災地へ行って、瓦礫で
作品作ってみようと思ってるんです。これだけはやってみないと何も話せないない
感じがあるんで、あそこでは瓦礫と言いますが、私にとっては、瓦礫でもなんでも
ありません。ただの事物の集積です。そういうこと考えると、かなり可能性があって、
ただ、いまの時点の美術で考えることをやると、あそこにいる人たちはどう思う
かね。その辺が焦点なんですけれど、まあ色々あります。それなんで、いま、私が
言ったことの中で、ちょっとでもいいですから、先生方・生徒の方から聞けると、
ものすごいシンポジウムになったと確信します。以上です。

有坂

長さん。突然、振って申し訳ありませんでした。でも、ちょっと予想もしない提示も
あって、あーよかったなあと、内心、思いました。ここはやっぱり高校生に聞く
しかないですね。はい、ちょっとすごい。どうですか、誰でもいいです。全員が
しゃべってもいいですけれど。

設問の仕方が下手なもんで、申し訳ございません。

有坂

ちょっと難しかったですね。でも、いま、いちばんショッキングなのは、被災地で
作品を作ってみたいというのがありましたが、その答えでもいいですよね。

あー、けっこうですけれども。

矢島

ただ、その前に、後世に伝えるというふうに話したと思うんですけれども、私は、
今回の「アートで何ができるか」というのは、震災を踏まえて、その震災で残された
傷跡に対して何ができるかというところに焦点を置いたので、そういうやりがいと
いうか、その自分で描くことの楽しさや充実感とかを省いて発言させていただいた
ので、そういうことです。

有坂

えぇ、そっちでもいいですけど、はい。

矢島

瓦礫の中で芸術活動するということに関してなんですけれど、阪神淡路大震災のとき、
報道関係の記者の方が、記録に関して、すごい傷跡とか、自分のお子さんを抱えて
移動しているところなどを果たして撮影してよいものなのかどうか、その記者の葛藤を
描いたドラマが放送されていたんです。やっぱり、それと多少似ているというか、
関連させて考えることもできると思います。

その当時は、心の中に傷跡もあるし、何でいま、そんなことをしなくちゃいけないんだ
とか、写真を撮る行為に関しては、事実を切り取るというか、本当に被災した人の
感情と、その場にいなくて、それを自分の作品に取り入れようとする二つの、全然
ちがう感情があるので、対立というか、申し訳ないというか、してはいけないんじゃ
ないかという想いを抱いてしまうんじゃないかと思います。でも、いましかできない
ということもあると思います。復興して全てが変わって、どんどん良いほうに流れて
いくと、その時間の経過は、そのときの傷跡とか負の面を徐々に忘れさせるというか、
時間の流れによって、その瞬間に感じたことが若干変わってしまうということもある
ので。その場で活動するのは被災された方にとっては疑問というか……。感情に少し、
こう、訴えかけてくるものもあるとは思うのですが……。難しい……。

有坂

大丈夫ですよ、無理にまとめようとしなくても大丈夫。

恩田

被災地で活動するということが、被災地の人にとってどう受け取られるかという
問題にもなるんじゃないかと思います。自分たちの家の壊れたところが絵になる
ということに、やっぱり傷つく人がいるかもしれないし……、その行動に疑問を
持つ人もいると思います。

ちょっと、いい……。そりゃ、やってみなくちゃ分かんないよ。やんなさいよ、
ねえ。どんどん働きかけて、お金出してもらって、県の方に。やってみなきゃ
分かんないよ、絶対。はじめから決めつけちゃだめだよ。若いのに情けないよ。

恩田

そう思うけど……。

若いのに情けないです。

恩田

すいません

田中

私は、被災地で活動するのはいいと思います。絵というよりも、家などの壊れた
というか瓦礫という言い方はちょっとアレですけど、壊れた物たちを材料というか、
使って、何かものを作るというのは良いと思います。被災地の方々の思い出の
詰まったポーチ、お家とかそういうものなんで。そう思います。

有坂

ありがとうございました。ちょうど、長さんと、ほとんどお孫さんの対決という感じで
興味深く伺いましたけど……。

たしかにねえ、皆さん、長さんの作品は多分、御存知ないと思いますが、いわゆる
現代美術ということで、とくに、あの、反時代性というか、そういうもあるかもしれ
ないし。日常の中に非日常を持ち込むみたいなところが現代美術にはあるんですけど、
まさしく被災地は非日常が一瞬にして出現してしまったので、そこで作品がどれだけ
成立するかというのは、まさしくやってみなくちゃ分からないっていうのが……。

ちょっと、あのね、いまが日常になっちゃった。それが問題。

小泉

そういうことですね。

日常になっちゃったということが大事なんだ。

有坂

非日常が日常になってしまったという御指摘ですが……。

小泉

いま、長先生がおっしゃった「瓦礫で作品作れるぞ」というのは、すごい意見だなと、
しみじみおうかがいしてます。私は、その話を聞きながら、クルト・シュビッタース
というドイツの作家のことを思い出しています。1916、7年から始めた仕事で、明らかに
ゴミの集積ですよね、シュビッタースって。あれは、第1次世界大戦がなかったら
出現しない芸術だと思います。科学文明を使って大量のゴミと死者を人為的に
出現させたのが第1次世界大戦ですよ。今回の津波の比じゃないですよ。だって、
意図的に壊し続けるんだから戦争というのは。それがヨーロッパにものすごい
ショックを与えて、たぶん、シュビッタースの目には砲撃で壊れた建物の瓦礫が、
そのままこの世界だと見えた。ゴミを美しく作り直そうとは、シュビッタースは、
たぶん考えていない。ゴミをゴミのまま提出してるんですよ。それが、たぶん、
シュビッタースが考えた20世紀の「世界」だと、人間が作り出した「世界」だ
という表現で。

私がヨーロッパでシュビッタースの作品を見たとき、「わあ汚い」と思った。はっきり
言って汚くって、ちっとも美しくないし、全然、感動しないです。でも、世界が
そういう姿だったら、それを表わすのが芸術家の仕事だと思った。だから、
シュビッタースの絵を見て怒りだすのは正解なんですよ。正しい反応だと思う。逆に、
長さんがあそこで瓦礫を使って作品を作って、被災者の方が怒ったら、それは正しい
反応なんですよ。だって世界はそうなってるんだもの。日本政府は何にもしないから
瓦礫がそのまま置いてあるから、そのまま作品にしたんだ、何が悪いんだ、芸術家の
責任じゃないですよ。私はそう思う。芸術家の仕事というのは世界の姿の真実を
そのまま見せることであって、私はヨーロッパの20世紀というのは、第1次世界大戦に
よってスタートしたと思ってるんです。さっき長さんは大震災で何も変わっていない
といったけど、私は日本の21世紀は2011年から始まるだろうと思ってます。あと百年後に
振り返ったら、あそこからだよなと、みんな言うにちがいないと思ってるんです。

すいません、高校生に一言。あのね、私も実際に作ってから、やってから言うべき
だった。まだ、やってないからやれよ、なんて言ってごめんね。いま気がついたよ。

有坂

ありがとうございます。いま、美術関係者、それから作家の方から出て、あの、最初は
多少、冷静な、ちょっと予定調和的な内容もあったんですが、さすが長さんで、対立点も
浮き彫りにしていただいたんですが。どうです、今日いらしてる方で、全く別の立場の
方とか、美術は好きだけど、今日たまたま来たという方いますか?どうですか、一言、
御意見でも感想でもいいですが。

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