閉じる

あーとネット・とちぎ サマーミーティング2011

いま、高校生と考える震災とアート アートにできること、できないこと。

04

有坂

そろそろよろしいでしょうか。では、前半を終了いたしまして、それぞれの方に
お話しいただきました。また、いまのお話しの全体を受けてですね、小泉先生と
それから間島先生から、印象も含めて、あるいはちょっと語り残したことなど
気付いたことなどに触れていただいて、その後、フロアの皆さんの方で、もし何か、
発言とかですね、体験とか、そういうことも含めて、お話しを出していただくように
進めたいと思います。では、マイクを持っている間島さんからお願いいたします。

有坂隆二  氏

有坂隆二  氏

間島

先ほど、高校生の皆さんのお話しを聞いて、やはり実感がこもった、たいへんな
経験をされたんだなと思うんですけれど、私が作り手として話を聞いていて
ちょっと思ったのは、後世に伝えるというところですね。

私としては、いま生きている作家であり、後世に伝えることを目標にして作るという
ことは前提にしていません。いま在る人に、いま生きている自分がどういうものを
考えて作っているかを見せていきたいんですね。その後に伝わるような、それこそ
強い作品というようなものであればいいなと思っているんです。ですから、後世に
伝えられることだけが、可能なアートの力ではないんじゃないかなという気も
するんですね。だから、いま被災された人たち、家族を失って、家も何もかも
なくなってしまった人たちにとっては、おそらく、もう何も嫌なことばかりかも
しれないです。もう、そんな話しも聞きたくないというくらいの気分の人も
大勢いると思います。

しかし、これから少し時間が経っていったときに、生きてく上で大切なことっていう
のは、生きてるだけじゃ生きてる気がしないっていう人たちが、おそらく、いっぱい
出てくるはずだと思うんですよ。食べ物があったり、色々なものが整備されている
だけでは、どうしても心の、何ていうんでしょうかね、心の隙間が埋められない、
どうしても、そういうアートのようなものを、何か、文学でもいい、美術でもいい、
何かそういうものにこそ、救われるものが何かあるんじゃないかと思う人もいるんじゃ
ないかなと思うんですが、どうですかね。そういうことを少し感じました。

有坂

はい、ありがとうございました。では、小泉先生。

小泉

はい。なかなか高校生の皆さんの意見が新鮮でいいなと思って聞いていました。

たしかに、間島さんおっしゃるように、結果として、作品が後世に残る、それを
あとの人が見て、この人はこういうことを考えたんだなとはわかる。だけど、
間島さんおっしゃったように現役の作家の人は、いま生きている人にそのまま何かを
伝えたいなという気持ちが強いんだろうなと思って、私も高校生の皆さんと同じように、
津波の映像を見ていちばん感銘を受けたのは、陸前高田に石碑が残っていたこと。あの
「ここから下に家を作るな」という。つまり、普段は何てことなく見ていたものが、
津波の後、ふっと見ると、あれ、これってメッセージじゃないかと気が付いて、何か
光輝いているものに見えてくる。結局、美術っていう表現の世界はこれだと思ったわけ。

つまり、あの石碑を作った人は、自分たちの体験は、口で言っても駄目だろうな、
どこかで歪むだろうなーと思った。それで、物体として残しておかなければ、あるいは
物体として置いておけば、見た人はみんな気付くだろうと思って置いた。だけど、
だんだん忘れていく。そして、ある時その、つまんない石だと思っていたものが
ピカピカ光り輝いて見えてくるという、そういうものが、いわゆる美術的な行為の
中にはある。さっき、恩田さんだっけ、データは消えるけど物は残りますよねと言った、
その通りなのね。だからそういう感覚が、私はやっぱり大事だなと思いました。

で、あと、矢島さんだな。何か感じる事、絵を描くことによって、初めて伝えるものが
出てくるんだっていう感覚は、美術の仕事なんじゃないかということをおっしゃって、
それはそうだなと思う。これは朝日新聞に載ってたけど、津波で流されたときに、自分の
奥さんと二人でどういう体験をしたかを絵に描いている。そんなうまい絵じゃないん
だけど、私はこうやって奥さんを隣の窓からベランダへ引っ張り出した、その後は橋に
ぶつかって屋根が取れちゃって、いかだみたいにこっちに自分がいて、そこに奥さんが
いて、頑張れとか言っている絵なんだけど、それを見たときに、あーやっぱりこの人は、
この絵を描くことによって、たぶん、何かわだかまっていた自分の中の気持ちが、
すっと吐き出たに違いないと思った。だから、あの一流の芸術家の作、仕事は
その人たちたちを救うことがあるかもしれないけれど、被災した人が絵を描く、
表現することによって初めて、自分の中にたまっている訳の分からない気持ちが
外に出ていく、ていう体験、これがたぶん、美術の根本だと思う。そういうものを
見直す機会がどっかであればいいんだろうなという気がします。

今回、作品を借りに行ったときに、いわき市立美術館で、展覧会が潰れちゃったから、
しょうがないからワークショップやってるんだっていって、近所の子供を集めて
塗り絵をさせていたのね。それ、いいの?て聞いたらみんな喜んでやると言ってた。

で、だんだんのってくると、自分の気持ちが出てくるようになってきて、実はそれは
一種の治療っていうと変だけど、美術が持っている根源的な力、つまり自分の気持ち
とか記憶は中に置いておくと訳わかんないものだけど、ここに絵具とか、物にして
出した瞬間に自分を自分で見直すことができるっていう、そういう仕事をしている
のかなと思った。

さっきはね、芸術なんて大した力ないよって反語的に言ったけど、実はあるんだと
思うんですよ。ただそれが、人任せみたいにして、「あ、美術さえ見れば大丈夫」
みたいなものとは違うような気がする。高校生のみなさんは、そこをちゃんと
押さえて、美術の力をちょっと信じてるなっていうのはよかったな。

それから、田中さんが言ったのかな。「フランダースの犬」で、教会に行って
救われたのは、私は、あれはアニメを何回か見ながら、ルーベンスの絵の力かな、
それともマリア様かな、どっちかなとずーっと思っているんですよ。

いわゆる近代の私たちは、芸術っていうものを宗教から切り離したけど、さっき
あそこで、ちょっと最初に見たけど、藝大の美術館の人が展覧会のテーマにお坊さんが
合掌している作品を使ってたのを見て、芸術と宗教っていうのを切り分けてしまった
ことは間違いだったのかなという気がものすごく強くしていたのね。

それから、もう一つ、会場の人からもご意見いただきたいなというのは、田中さんの
すごいユニークな、傷ついた作品は直さないでそのまま展示した方がいいんじゃない
のかっていう意見に対して、美術館の関係者もいるし、会場の人の意見も聞いて
みたらいかがですか。

有坂

ありがとうございました。では、このあと様々なご意見をいただくとして、
小泉さんの方から、被災作品をそのまま見せるっていうことについて
どうですかっていう投げかけがあったわけですけど、とりあえずこれに関して
だけで、ご意見ある方、いらっしゃいましたらお願いします。出なければ
美術館の関係者に、どうですか?いちばん近い……

04