有坂隆二(進行)
お待たせしました。ただいまから、〈あーとネット・とちぎ〉と
小杉放菴記念日光美術館の特別企画「サマーミーティング2011」
『いま、高校生と考える震災とアート アートにできること、できないこと。』の
シンポジウムを始めさせていただきます。
私は、進行を担当させていただきます有坂といいます。県立高校で美術を
担当してます。よろしくお願いします。
それでは、パネリストを紹介します。茨城大学教育学部教授の
小泉晋弥先生です。先生は茨城県五浦にある岡倉天心研究所の所長を、
昨年まで担当されていまして、現在は副所長というお立場です。震災
関連について、とくに、多方面なところから、御発言いただこうと
思っています。よろしくお願いします。
それから、間島秀徳さん。間島さんは日本画家ということですが、今回は、
アーティストの立場として参加していただきました。教育面でも武蔵野美術大学や
茨城大学で指導もなさっているということですので、そういう面からも、
いろいろな経験をお話しいただければと思います。よろしくお願いします。
そして、今回は特別ゲストの高校生と考えるということで、栃木県立
宇都宮女子高校の美術部の3名の方に参加していただきました。みなさん、
2年生で、矢島雅子さん。それから、恩田紗代子さん。田中優里花さん。
この3名の方がゲストということで、とくに高校生の立場から、いろいろな
発言をしてもらおうと思ってます。よろしくお願いします。
会場風景
まず、基調報告というかたちで、小泉先生の方から御発表をお願いします。
小泉晋弥(パネリスト)
小泉晋弥 氏
御紹介いただきましたが、私は茨城大学で、六角堂という岡倉天心が
明治38年に作った施設を管理している立場だったんです。今回の震災で、
津波で流されてしまいました。
流される前は、非常に変わった形の岩があって、その岸辺に
建っていました。引き潮のときの高さは、だいたい4mちょっとあるわけで、
震災のとき、ここまで波が来ました。大学の調査によると7m強の津波で
流されちゃったということなんですが、非常にきれいな風景だったんです。
管理人さんが、3月11日の4時頃ですか、戻ってきてみたら、
流れていく六角堂の一部を見ました。海がもう、崖崩れがあって、
土砂が大量に流れ込んで、茶色くなっちゃったと言ってましたね。
これが、その海上を流れてゆく六角堂の、多分、出窓だろう。こういう状況で、
3月11日の4時頃、六角堂が被災した。津波のあと、土台だけのこって、
太いパイプの火災報知器もなぎ倒されて、相当、強い衝撃だったのが
分かります。ここは、上がり框があったところなんですが、無くなって
しまいました。津波が去ったあとに、このベンチ、百キロあるんですが、
二つひっくり返ってます。ここまで波が来たそうなんで、
ここから海面まで約十メートルあるんです。
これは私の研究室で、私はここに座ってて、地震を受けて、両側の壁についていた
本棚が倒れ込んできた。震災の当日はこんな余裕ないので、三日後ぐらいに
片付けにいったときに写したんですけど、腰まで本に埋まって、ようやく、外に出て、
余震の中で、現地から六角堂流れましたという話しを聞いた。
今回のテーマである震災とアートっていう話しですが、明日まで、東京藝大の
美術館で、「被災地美術館所蔵作品から、今、美術の力で」という展覧会が
開かれてます。機会がありましたら、入場無料ですので、行ってください。
実はですね、私がこういう状況で、「さあ、どうしようかな」
と言っているときに、藝大の美術館の古田さんから連絡があって、
夏に企画展で幽霊展をやろうとしていたけれど、この夏、
お化けの展覧会はないだろうと思って、中止にして、その代わり、
被災地の美術館を支援する展覧会に振り替えたいということを
考えたらしい。それが4月末の話しです。震災から一ヶ月ちょっと
経ったところで、私のところにメールが来て、どうだろうという。私は最初、
それは無理でしょうと言ったんです。つまり、8月にやる展覧会を
4月から準備するというのは、とうてい無理な話しでしょう。
「やりましょう」という話になって、みんなに声をかけたときも、
同じ反応が来たんです。「被災した美術館に支援するというのは、
こっちから作品を持って行くんじゃなくて、藝大の所蔵品を
持ってきて展覧会をやってよ」と。そっちのほうが支援じゃないか
と言われました。二ヶ所以上から言われてます。
今回、出品していただいた、岩手県立美術館は、建物は無事だったんですけれど、
岩手県が予算を全部組み替えたということで、展覧会企画費がゼロに
なったんですよ。だから、今年の夏は、企画はできない。だから、自分の
持っているものだけ並べるんだっていう話しになっていた。そういうところに、
作品を持って行ったほうがいいんじゃないのかという話しは
よく聞いたんです。けれど、被災地の美術館の作品を、東京の人たちに
見てもらいたい。現実に、ボランティアで、岩手とか宮城に行く
といったって、それはたいへんな労力がかかる。
美術館の学芸員がやれることっていうのは、結局、作品を展示すること
によって、なんらかのメッセージをみんなに伝えることなんだというのが、
古田さんの強い思いでした。私も今回、被災した地域の美術館とは、
わりと深くつきあって、いわき市の美術館や郡山市の美術館とか、
いま水戸にいるので、知り合いも多いから、声かけてやってみようか
というかたちで、実現した展覧会なんです。
オープンの前の記者発表の日、募金箱をおいて。最初、いろんなことを
考えたんですよ。お金集めて、被災した美術館で山分けしようかとか。いろいろ
言ったんだけど、文化財や作品もそうとう被害受けていて、予算のない
美術館のために、藝大の財団がお金を集めて、作品を直すという考え方に
しようということになった。有坂さんにさっき聞いたら、いっぱいになって
いたといってましたね。このあと、このお金は藝大の財団が、被災地の
美術館の作品修復に使ってくれるだろうと期待をしております。
さて、趣旨は「被災したけれど元気に復興していく」とか、あるいは
「祈りを込める」とか、それは各館にお任せするので、とにかく震災後、
東京の観客に、いわきとか郡山とか宮城とかから、どんなメッセージを
送るかはそっちで考えてくれないかと言って、それにふさわしい作品を
各館から5点くらいずつ推薦していただきました。たとえば、
郡山の美術館から出てきたのは、お坊さんが道端で祈っている
作品。これがちょうど祈りというテーマで…。
この展覧会は時間がないのでポスターを作ってないんです。チラシは
後で作ったらしいですが、とにかく広報をやっている暇もないんだけど、
とにかくやれるだけのことをやってみましょうという展覧会です。
これは茨城県近代美術館が推薦してくれた作品で、中村彝という大正時代の
作家です。頭がい骨と《カルピスの包み紙のある静物》という作品を
出品してくれたのですが、どういう意図なのかというと、中村彝という人は
肺結核でいつ死ぬかという状況で、私は長くないんだということで、
医者から借りた骸骨を写生していたんです。その最中に関東大震災に遭って、
画風ががらりと変わるんです。最初は暗い気持ちで自分の死を見つめるみたいに
骸骨を描いていたんだけど、関東大震災のあとこういう絵を描く。
本当は肺結核でいつ死ぬかと思っていた自分が助かって、健康な人が十何万人とか
死んでいるわけで、それを見てどうも考え方を変えたらしいです。
それでタッチも変わって、ここにあるカルピスの包み紙。カルピスって、
いま、私たちにとっては清涼飲料水だけど、中村彝さんのころは
栄養剤なんです。いまの栄養ドリンクと同じ。だから、これは自分の
命をつないでいた飲み物の包み紙です。
それから、洗面器みたいなところに鉢が置いてあって、水が足りなくて
枯れそうな鉢を助けるときにやるやり方です。
それから、花瓶に切り花を差す。これは全部、途切れていくような命を
「つなぐ」象徴で満ちている。
要するに中村彝さんは地震の後、自分が死ぬっていうよりも、ちがう方向で
希望を逆に見た。その象徴的な絵なんだと思うんです。
宮城県美術館は荘司福さんとか、東北の作家で、東北というものを描いた
作品を出品してくれました。東北に思いをはせて欲しいということだと思います。
これは岩手かな。これもこうやって見ると「大自然の力を思い知ったか」
という絵だなあと、震災後に見え方が私も変わったんです。
これは齋藤隆さんといって、阿武隈山地を転々として絵を描いていた
人で、飯館にはいなかったと思いますけど、川内村ではアトリエが
あったんですね。いま、あそこ入れないですよね。原発から30キロとかで。
そういう人の作品がこうやって並んだんです。
これは、五浦で六角堂が流されたというのは文化財被災として新聞等に
大きく取り上げられたので、それを「五浦」というテーマで組んだ
場所です。これは流されて、海から瓦だけは拾い上げたので、その一部を
こうして展示しています。岡倉天心という人は良く考えたら、茨城県の
五浦という場所でゼロからスタートしたんだ、東京から引き払って
五浦は復興、再興の象徴的な場所なんだということで、このコーナーを
作ったということです。
ここで、ぜひ、私が展示したかったのは、横山大観の《海暾》という
絵で、五浦に行く直前に描いた絵です。アメリカとかでいわゆる朦朧体の、
空気を描く日本画で、海から朝日が昇ってくるという、そういう非常に
すがすがしい感じの絵を描いていたんです。(画像切り替え)これは
昭和の大観です。《朝霧》というタイトルです。
横山大観も関東大震災を体験しました。当日は、ちょうど院展の初日、
有名な《生生流転》という絵を並べて、お昼に関東大震災だったから、
3時間くらいしか展示していないわけです。横山大観は《生生流転》などの
出品作を自分たちの手で丸めて抱えて避難させたのです。ショックは
大きかったと思います。
これ(《海暾》)は関東大震災の前の大観、非常に明るくて
すがすがしいタッチが、大正時代の前半の横山大観です。
ところがこれ(《朝霧》)。現物を見ていただくとよくわかるんですけど、
いかだを操縦している人たちが、こういう言い方をすると失礼なんですけど、
北朝鮮のプロパガンダの人の顔みたいに、明るくて端正なんだけれど
魂ないという顔なんです。
これは私が大学時代に教わった吉沢忠先生が言ってたことなんですけど、
横山大観は大正時代はすばらしく明るいのに、昭和になると堅苦しくて、
黒っぽくなって、暗くなる。その理由は何か。吉沢先生は書いてないんですが、
私は、たぶん、横山大観は日本画壇のトップになって軍に協力したり
するんですけど、権力欲かなとずっと思っていたんです。
私は今回の大震災でその考え方を変えて、やっぱり横山大観も関東大震災で
自分の考え方を変えたんだろうと思うんです。好き勝手なことをやれた
関東大震災前。いまのテレビを見るとわかりますよね。「日本は一つ」だとか、
「がんばろう」とか、つまり、自分の欲望を捨てて人のために働こうっていう
空気が満ち満ちているじゃないですか。それが横山大観の絵から自由な空気を
奪ったんじゃないかというふうに、私は考え方変えたんです。
それを確認したいと思って、今回、無理を言って近代美術館から
この昭和の大観……、堅くて、わかりやすいんだけど、なんか大観らしい
すがすがしさが消えちゃった作品を出していただいた。私はこれ、
関東大震災シンドロームじゃないかと思ったんです。
もうひとつ、これは中村一美さんの《破庵》という壊れた家。中村一美が
どうして壊れた家みたいなテーマを描いているんだろう。今回、
いわき市立美術館から推薦されたんですが、調べてみると、中村一美も
お父さんが死んだりして家族が崩壊していく。つまり、世界が崩壊していく
という感覚を強く持っていた。彼がなぜ絵を描いているかというと、
現実の世界は山が崩れるように、常にガラガラ崩れ落ちている。でも、
それを停められるのが芸術なんだというのが、どうも中村一美の
根源にあるらしい。そのことを、今回、私はひしひしと感じたわけなんです。
あるいは、これはポスターにもなりましたけど、佐藤潤四郎の、郡山市立美術館の
作品なんですけど、むかしは気が付かなかったんです。これは東海村に
初めて原子力発電所ができたときに使われたガラスです。このガラスは
鉛が入っているんですよ。鉛ガラスです。原子炉を直接、人間がのぞくと
放射能で死んじゃうじゃないですか。ガラスに鉛がたっぷり入っているから、
ここで放射線が止まるので、原子炉の中を覗き込める鉛なんです。
その特注のガラスを使って、ここに仏様の足と仏様の手を
刻んだんです。佐藤潤四郎さんの原子力に対する畏れが、
これに込められていたんだと、今回、初めて気が付いた。
これは水戸芸術館です。アバカノヴィッチ。水戸芸術館は
4月に再開したんですけど、暗くて水戸に展示できないから
東京で展示してということで持ってきたんです。人間が壊れていく感覚。
それから、これは郡山市立美術館のゴームリーの作品です。これは
珍しい作品で、ゴームリーは鉛で体を覆っている作品なんですよ。鉛で
体を覆うのはシェルターですよね。人間が、放射能に対するシェルター。
逆にそのシェルターを取るとどうなるか、私は今回福島の原発事故の後に、
人間の体を放射線が貫通していく姿に見えたんです。つまり私にとっても
それまでの美術品の見え方が変わったんですよ、3月11日以後。
本当はこの脇にいわきの鉛のゴームリーと、この郡山の放射線が
貫通しているようなゴームリーを並べて見せようと思ったんですけど、
いわきのゴームリーは残念ながら地震で倒れて壊れて展示できなかった。
それから河口さんの作品。これは水戸芸術館の作品です。《関係‐再生》。
マンモスの骨、歯。ヒマワリの種がかごにいっぱいあって……。水戸芸術館で
発表された時にはなんだろうと思っていたんです、はっきり言って。
いま気が付いたことは、セシウムは半減期30年ですが、河口龍夫さんは、
放射能は何万年前の死とつながるんだ、つまり想像力として、何万年という
時間を持っている。それから今、ヒマワリを、本気で福島の原発の周りに
植えようとしているでしょう、放射線を吸収する植物として。これ見たときに、
私は河口さんの本当の意図がやっとわかった。
これもそうですね、宮島さん、これは数字がバタバタと変わるわけですね、
これは一種の、命の瞬きみたいに見えるわけです。最初、昔見たときは、
人間の命ははかないんだなあとか、つまり死んだり生きたりするっていうのは、
123456789の後が暗いですよね、ゼロは入れない。ゼロになると消えて
しまうんです。人間の50年とか60年のいのちを一瞬で見せるっていう優れた
表現だなあと思っていたんですが、今回、いわきで見たときに何を感じたかと言うと、
一つ一つのいのちは、確かにはかないものかもしれないけれど、全体として
人間の営みは個別のものが死んでもこうやって永遠に継続していくんだと、逆に
希望を感じたんです。ものの見方が震災以前と震災後で、私は変わったんです。
芸術の力、作家のそういう力というのはすごいなというのを逆に感じた。作家は
かなりセンシティブだから、深く人間のいのちだとか感じていて、おそらく今度の
震災で、日本の芸術表現はすこし変わるんじゃないかと私は考えているんです。
もう一つ大事なことは、芸術家が、あの悲惨な状況に直面したときに
何を表現できるだろう。《ゲルニカ》は教科書的に言うと、スペインの
爆撃で死んだ人をすごく見事に描いたと言うんですけど、《ゲルニカ》が
どうゆうふうにして生まれたか。
これは、《ゲルニカ》のためのスケッチです。これが完成作では、どういう
ふうになるか。泣き叫ぶお母さんと死んだ子供。だるくないですか。こんな
大きいんですよ。《ゲルニカ》、現物ご覧になったことありますかね、
何人か……。いかがでした?傑作だと思いました?
私はでかいだけだなあと思った。藤枝晃雄さんは、はっきり講義で
聴きましたけれど、《ゲルニカ》は駄作だって言っています。なぜか?
こうやってみると線がだるいから。緊張感ないじゃないですか。今回、
私はそれもちがうような気がしたんです。スケッチでは、本当に悲惨な
状況を小さい画面に描いてあるんですよ。で、大きな画面になったときに、
私は何を感じるかというと、ピカソは、「こんな巨大な壁画描いたって
戦争終わんないしなー」と思ったんじゃないか。小さい画面でこんなに
集中して、炎の切迫感と、気の狂ったようなお母さんの叫びを描いたのに……。
これ見てください。アップで見ますとね、このお母さんは、本当に
泣き叫んでいます?《ゲルニカ》の方は、福笑いの出来損ないに
見えません?私は、ピカソの《ゲルニカ》って、悲惨な戦争に対して
芸術は無力だって、この絵で言ってるような気がする。つまり、悲惨さを
描くんじゃなくて、芸術っていうのはメッセージとして戦争反対なんて
言うことできるのかというピカソの正直な無力感を感じます。こんな
大変な事態に切迫した死の表現なんて出来っこないという感覚を
感じます。なんて私たちは無力なんだというメッセージに見えます。
そういうふうに捉えていくと、横山大観とピカソの《ゲルニカ》、似てるような
気がするんですよ。何千人とか、何万人とかが死んだ事態に対して、いい絵を
描くっていったいなんですか?という話なんです。つまり芸術というのは人の
いのちを救える訳じゃないですよね。そしたら「あー、何も出来ない」という
正直な感覚が、私は《ゲルニカ》に満ちているような気がする。それが大変な
ことが起こったときに、正直な芸術家の反応じゃないか。だから芸術で世界を
救おうなんて言ったって、それは無理じゃないかというのが、私の今日の
問題提起で、それに対して他の人はどう感じるか、今日はぜひ、聞きたいな
と思っています。
私の話は以上です。